「保育をする前に、子どもを見ることの大切さ」

今回、保育の常識(常識と思われていること)を再度問うてみたいと思います。

保育の中の常識には、世間一般の常識とはかけ離れていて、クスッと笑ってしまうこともたくさんあります。

なぜ、そんなことが起きてしまうのかをずっと考察してみると、多くの保育者は「子どもを見る」ことの前に「保育をする」ということが優先されている場面がたくさんあるように思います。

「保育」という概念に囚われて、「子ども」という存在を見ていない。

ご飯を食べさせる、トイレに行かせる、お昼寝させる、遊ばせる・・・。という学校で習った「保育」という順番を追うことに焦点があたり、「子ども」という存在には後回しになっていることが多くあるように思います。

例えば、

1歳児~2歳児などに多いようですが、移動をする際に「電車ごっこのように一列になって進みましょう」と子どもに命令します。列を崩さずに、目的地に向かえるので、保育的に都合が良いのでしょう。

しかし、大人に例えてみればよく分かることですが、前の人の肩を持ちながら歩くなんて、とても難しくて私はできません。足が前の人にあたってうまく歩ける自信はありません。

それを保育者の都合で、子どもには強制してしまいます。

さらに列を乱れると叱られます。1歳にしてはなかなか凄いチャレンジです。

一番歩きやすいのは、一番危なくないのは、電車ごっこや手を繋いで歩いたりしないで、一人で歩かせることです。

他にも、

絵本を読み聞かせをしていて、ある子どもがしゃべっていると「静かにしなさい」となります。こちらから絵本を読み聞かせておいて、他のことをしたら叱られます。自分の提案以外は許しませんよ。と、子ども以上に「わがまま」を発揮します。自分が子どもにとって魅力的ではないんじゃないか?なんてことを考えることは後回しです。さらに、こちらに集中せずに他の遊びをしようものなら、「ダメな子」になってしまいます。保育者にとって都合の悪い子はだいたい「ダメな子」のくくりになってしまいます。

他にも、

子どもが大声を出したり、興奮すると「落ち着きなさい」「声のボリュームに注意しなさい」となります。サッカーの試合や、好きな俳優さんの前では、キャーキャーと大盛り上がりの大人なのに、子どもには厳しい(笑)すぐに「静かにしなさい」となる。「どうしたの?なんか楽しいことあったの?」とはなかなかなりません。

どれもこれも、子どもを見る前に、保育をしちゃっています。

「教える」「指導する」が先に来ていて、子どもの心はさて置き、保育者の都合の保育が進められていきます。

だいたいそういう保育者は子どもに嫌われます。嫌われると余計にこちらの話も聞かれなくなります。「全然言うことを聞かない、まったくもう」とさらに怒り、さらに子どもに嫌われます(笑)。

保育の前に、子どもを見る。子どもの心を見る。

そうすれば、こちらに耳を傾けるようにもなります。素直な子どもたちと過ごすことで、こちらが困ることなんてほとんどないような気がします。

子どもが動かずに困っている保育者は、ほとんど子どもの心を理解していない。「子どもだったらこう思うよね」という感覚がありません。自分という人間と、子どもという人間を別の生き物として捉えてしまいます。

自分という人間と、子どもという人間も本質的には同じなんだな、と思うと、自分に置き換えながら子どもを見ることができて、保育というフィルターを通すのではなく、真っ直ぐに子どもを見ることができるようになると思います。

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