人は不完全ということを認めれば、自分を許し、人を頼ることができるようになります。
保育者もまた同じく。保育者として、不完全だから、周りの職員や子どもを頼ることができるのではないだろうか。
親も同じく。祖父祖母を頼り、園を頼り、学校の先生方を頼りながら、子どもを育む環境を創ることができる。
人を信じるというのは、ある意味では、背伸びを止めて、自分の不完全を認め、許すことかもしれない。
すると、人の良いところが見えてきて、子どもの良いところも、周りの良いところもしっかり見えてくる。
子どもたちは、大人が思っている以上に色んなことを考え、感じています。そして、子ども扱いせずに、ひとりの人間として対等にリスペクトをした時、責任をもって行動してくれます。
私が敬愛する「見守る保育」の実践者である 藤森平司先生の「見守る保育の三省」として、以下のような言葉があります。
○子どもの存在を丸ごと信じただろうか
子どもは自ら育とうとする力をもっています。
その力を信じ、子どもといえども立派な人格をもった存在として
受け入れることによって、見守ることができるのです。
○子どもに真心をもって接しただろうか
子どもと接するときは、保育者の人格が子どもたちに伝わっていきます。
偽りのない心で、子どもを主体として接することが見守るということです。
○子どもを見守ることができただろうか
子どもを信じ、真心をもつことで、
はじめて子どもを見守ることができるのです。
…
知り合いの園長先生が、「子どもを私は子どもと思っていないの。一日を一緒に創りあげる仲間と思っているの」と教えてくださりました。
子どもたちを保育している、子育てしている、という上から目線ではなく、共に1日を創り上げる仲間という発想はすばらしいなと思います。
子どもに何かをしてあげなければいけないと思い過ぎているようにも思います。目の前の子ども、園児は、共に1日を創り上げる存在と考えることはできないだろうか。
園児たちを預かるという概念を止めて、共に1日を創り上げる仲間と捉えることができれば、何かを教えてあげるのではなく、「共に何かを共に学ぶ」ということになります。
何かをやってあげるではなく、「共に何かをやる」ということ、絵本を読んであげるではなく、「共に絵本を楽しむ」ということ、遊んであげるではなく、「共に遊びを楽しむ」ということ、食事の準備をしてあげるのではなく、「共に食事の支度をする」ということ…
子どもを丸ごと信じ、頼ることで、机を一緒に抱えてくれたり、洗濯物を手伝ってくれたり、先生がくるまで先生役をかって出てくれたりと、子どもたちはちびっこ先生のように協力してくれます。
「指導しなければいけない存在」「何かを教えなければいけない存在」と思うよりも、共に生活をし、共に学び合う仲間と捉えることの方が、頼られて、よっぽど子どもたちは、学び多く、自信につながって、育っていくように思います。
今日も楽しい1日を共に創りましょう。今日もよろしくお願いします。